文学?作品




受験生のお・ま・い・り

−石清水八幡宮の神様の話−
いやあ、毎年この時期ともなると合格祈願の受験生が大量にきてくれるもんで 忙しくてたまらんね。だいたい日頃信じてもいないくせにこのときばかりは 苦しいときの神頼みっちゅうわけでくるんだからね。勝手なもんだけどまあ 来てくれたからにはこっちも何もやらないっていうわけにもいかないんでね。 あちこち飛びまわってるんだけど、でもわしのできることなんて知れたもんだよ。 運しか操作できないんでね。それにこの時期にかぎって大量にくるから手の まわらないこともあるしね。そういう人にはわるいと思うけどまあ ここにくることで気がすめばそれでここに来た分の半分の成果はあったようなもんだよ。 それに加えて何かを期待するなんてちょっと虫がいいんじゃないかね。 日頃こない人はね。こっちなんてそういう人には半ばボランティアでやってるような もんだよ、はっきりいっちゃえばね。もちろん日頃から信じてくれてる人には サービスしてるけどね。
そういえば去年もばかな受験生が二人連れできたのがいたんだよね。 二人ともこの時期になるまでどこにも合格祈願してないからって きたらしいんだけどね。けしからんことに二人ともこの石清水が どこにあるか知らないときたんだよね。腹立つから何もしてやるもんか と思ったけどせっかくここ目指して来るんだし二人がどういう行動するか おもしろそうだったから見てたんだよね。二人をみたところ一人は 少々単純だけど勉強は結構してるみたい。もう一人は頭はよさそうだけど 勉強してないしちょっとひねくれてるな。こっちとしては一人目の方に きてほしいなあと思っていたらなんだ二人とも下の極楽寺にはいっちゃった。 でもこっちとしてはそのすぐあとにこっちにくるんじゃないかと 思っていたんだけどね。まあこっちも忙しいから本当はあのまま 帰ってくれると助かるんだけど。しばらくして二人が極楽寺から出てきた。 そしたら本当に帰ってっちゃう。「いやあ、石清水って本当に すばらしいですね」なんていってる。どうやら極楽寺を石清水とまちがえたらしい。 なんたる無知。あんなことで試験受かるんだろうか。他の受験生は みんな登ってくるんだからわかりそうなもんだけどね。 まあこっちとしては仕事がへって助かった。と思ったら二人が別れた。 ひねくれた方が「ちょっと用事が」などといっている。 おっとそいつはまっすぐこっちにやってくる。 もしかしてちゃんと石清水がここだって知ってたんだろうか。 で、そいつはしっかりおまいりして帰っていっちゃった。 「これであいつに差をつけたぜ」なんていってる。さびしいね。 わしはあんなやつ助けてやるのもしゃくだったけど 助けたところでどっせ受からないと思ったから助けておいた。 わしの方がひねくれてたりして。で、結果がどうだったかって。 もちろん来た方は落ちてこない方は受かった。 こんなこと知れたら商売にひびくけど仕方がない。 でも考えてみれば当然でしょ。 来た方は本物の石清水にお参りしたんだからといって ますます勉強しなくなり、こない方は極楽寺を石清水と信じて 安心して勉強したんだ。結果は目に見えてるよ。 やっぱり大切なのは信心だよね。わしら何しても人はやっぱり動かせないけど わしらに対する信心は人を動かすからね。それに信心があるからわしらが 存在するんで、信心もないのにわしらから効用を得ようなんて来た方のやつ みたいな人は考え方がひっくり返ってるんだよね。それに実際そういう人は 努力しないからわしらがなにしてもかわらないしね。・・・                    なるほど。




(上記作品はつれづれ草五十二段をアレンジしたものです。)
[仁和寺に或法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心憂く覚えて、 或時思ひ立ちて、ただひとり徒歩より詣でけり。極楽寺高良などを 拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて傍の人に逢いて、 「年頃思ひつる事果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。 そも参りたる人毎に山へ登りしは、何事かありけん。ゆかしかりしかど、 神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞいひける。 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。]





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